めし 〜食べ飲み、消費、人格〜

おれのツイッターを覗いたことのあるひとは、メディア欄がめしの写真で溢れていることにきづくであろう。察しの良い人はおれがめしを食うことが好きであると気づくかも知らん。めしに関わるとりとめのないことごとを書いていく。



めしを食う、食欲を満たすというのは至上の快楽だ。他の欲求を満たした場合と比べてみてほしい。睡眠欲は朝という絶望を与え、性欲は賢者タイムという虚しさを与える。食欲にそんな後腐れはない。残るは愉悦の残り香、ゆたかな幸福感…。なんとも素晴らしいではないか。

食べが出てきたら飲みを出さねばなるまい。大学生は食べと飲み共に放題にしたがるからいけない。飲みのもたらす快楽は食べに比して少ない。加工自由度が低いというのもあろうが、食べに対し飲みはより肉体にとって補給重要度が高く、切迫しているからということもあるだろう。個体としての必要性と、対価としての快楽は反比例するように思える(シコが気持ちいいのはそういう理由ではなかろうか)。

そんな生存基盤たる飲みさえ何とか愉しみを極大化せんと濃い味付けの飲み物を開発し、却って喉を渇かしているのだから人間の欲とは恐ろしいものだ。おれの愛する酸っぱいサイダーもこの欲によって生まれたものだが、これら味付き飲み物は飲み物と言うより寧ろ嗜好品というべきではなかろうか。味付き飲み物を嗜むとき、そのままごくごくと流し込んでしまうよりも口内で流体を転がし味わう場合が大抵だろうとおれは信ずる。



さて、食べにせよ飲みにせよねりにせよシコにせよ、我々は常に何かの欲を満たして生きている。上記根源欲求の他にも、知識を得たい、名誉を得たいといったより社会的な欲求もあろう。

これら諸欲求に通ずるものはなんだろうか。それは欲を満たすことは消費によって成り立っているという点である。何か原資がなければ生み出しえず、何も消費しなければ±0なのだから当然といえば当然のことだ。

薬物依存のあの無限連環の図が端的に示しているように、欲求は先鋭化していく。むろん消費も先鋭化する。勉学を捨てて遊ぶ欲求があったとして、この欲はどんどん増えていく。気づけば取り返しのつかないところにいる。今更勉強したって溜まった課題は処理し難いほど膨大なものだし、そこから逃避すりために一層勉強を捨てていく…。こんな才能の消費はよくあることだろう。

例としてとったのは勉学だが、人生なぞどのタイミングで才能を使い果たすかというだけの問題である。才能を磨き続けられる人間とそれ以外には明瞭隔絶の差があり、前者が後者を限界才能範囲で使い倒すのが理想社会というものだろう。

かような消費の快楽をひたすらに求め続けると何が起きるか。先程述べた消費の先鋭化は量的なものに留まらず当然質的なものも含む。つまりどんどん過激なものを需要するようになっていくのである。救いのない話の愉悦を知ってしまって、そういう話がハッピーエンドで終わると安堵と共に物足りなさを感じるようになってしまった。そういうようなことである。

そういえばある人が「相手を激しく求める狂える情熱は真の愛ではない。真の愛は相手のありのままを尊重し、相手に求めるものではなく自分が注ぐものである。」というようなことを言っていた。この論自体は理性偏重というかキリスト教アガペーのように感じて好きではないが、そもそもそう思うこと自体が消費のエスカレーションに呑まれた現代人的な感想なのかもしれない。

現代人がかような純朴な愛を抱くことは可能なのだろうか?



めしの話に戻ろう。聡明な読者諸兄はまた話しがとっ散らかっていくことに気づいているかもしれないが。

食べの愉悦は無論舌にさまざま踊る味覚の妙にある。食べは生存の基本であるから、欲求の先鋭化を待たずに様々な食の経験を得る。そうして生を得てから何年もかけて多様な経験を積み、個々人の趣向が決まっていくのだ。

こう考えると、誰もが同様に多くの経験を積み自分特有の傾向を持つに至るという点で、食べの趣向は人格の具体的かつ普遍的な形ではなかろうかと思えてくる。

これを読んでいる人には成長と共に食べ物の好き嫌いが変わったという人も多いだろう。より抽象的な人格についても同じことが言えないだろうか。つまり、経験を重ねることによって刻々と人格は更新され変幻自在に変わっていくということである。

人格とは、積み上がっていく落ち葉の山のようなものではなかろうか。そこには色んな葉が様々積もっていく。みんなどこかしらのタイミングで「自分はこんな感じだ」と山の形を決めていくのだろう。それは人格の完成と言えるかもしれない。社会の一成員としては、一貫性があったほうが良いに決まっている。

おれはなるたけ色んな落ち葉を積んでいきたいものだが。