死は救済か

今回は死は救済かというテーマをいただいたので、死が救済なのかどうかを考えてみたい。

最近、「死は救済」という文言を目にする機会が増えた。それほどまでに現世での生活か苦しい人々が増えたのだろうか?

話を進めるにあたって、この句を形成している死と救済という抽象的でむつかしいワードを確認したい。

一言に死と言っても色々な類別をしうる。生物学的な死、社会的な死に大別されるし、後者は生前の社会的死(一般的な社会的死の用法)と死後の社会的な死(生者の記憶からいなくなる)にわかれる。どうやら死による救済を考える人々は現世からの遁走を図りたいようなので、ここでは生物学死が最適といえそうだ。


救済のほうは既に述べているように苦しい現世からの遁走であろう。救済という言葉は宗教臭さをまとっているが、実際にはどんな救済があるのだろうか。

おれのような悪いネット文化と一緒に触れ合いながら育ってしまった人には、救済といえば思い当るものがあるだろう。ピンときた方大正解、オウムが殺害を指す際用いた用語、ポアである。彼らの理屈によれば、ポアの精神は「悪い奴が業を貯めないうちに、功徳ある我々が生命を絶たせて良い魂のステージにあげてやろう」というものらしい。これは死んだほうが生きているよりましだという点では近年の死は救済言説とあっているかもしれない。

オウムではパチモンもいいところだが、彼らの教義のもとになっている仏教では他宗教とは隔絶した死生観がある。ユダヤ教キリスト教イスラム教といった所謂アブラハムの宗教は現世とあの世を連続したものとして考える。現世での善行悪行は全て死後反映されるのだ。ゆえにこの系列の宗教は「自分が死後よくあるために」良い人生を過ごすことを求める。救済を求めて死に流れることは奨励されない。そんなことをしても死後にまた苦しむだけだ。

一方仏教は全く異なる観念を持つ。仏教にとっては現世は全て仮初にすぎない。また仮初の生命は輪廻転生によって無限に回っている。仏教の最たる特徴は、上述のような善行ポイント制度に加えて輪廻からの脱出を用意していることだ。それ即ち悟りである。ただし仏教のシビアな点は悟りは最終的には自分個人で到達する境地だという点だ。もしかするとこのあたりがオウムの体育会的精神の根本にあるのかもしれない。

話がそれたが、要するにアブラハム系列だろうが仏教だろうが、たいていの主要宗教では死を救済たらしめるにはそこそこのハードルが設けられているということだ。そもそも死にたいと思うような人生を送っている時点で救済は望み薄かも知らん。

…なんでこんな話になったんだ?なぜおれは大して得意でもなかったうえにほとんど忘れている倫理の知識を深夜の頭から頑張って引き出してきたんだ?

大体なんだよ死は救済って。そんなに現世が嫌なのか?きみは日々ツイッターで流れてくる尊い絵なり漫画なりの摂取とか安全地帯の視聴で生きるポイントを補給できないのか?どんだけ燃費悪いんだ?幸せは短期目線でいっぱい獲得して、不幸せは長期目線で気にしなければよかろう。

どう決着させるべきか自分でもわからなくなってきたので最後に論点を整理して終わろうと思う。

死を救済と思ってるやつは死で救済されない
ツイッターで神絵師をひょろーしろ
玉置浩二の「田園」を聴け
安全地帯の「I LOVE YOUからはじめよう」を聴け
https://m.youtube.com/watch?v=nVjInRg4-ak
(02:00〜歌がはじまる)
ブログ執筆は計画的に

追伸:安全地帯の「いつも君のそばに」の生音源がないか知っている方がいましたらご一報ください。